枯れ木も山の賑わい

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人生二毛作といわれる時代。老いて学べば死しても朽ちず。

外山滋比古,"「人生二毛作」のすすめ",飛鳥新社,2010,P.104-108より
 
「知的生活」などといいます。なにをもってして知的というのか、そしてその知的なるものが、後半生を充実させるためにはどうあるべきか、よく考えてみなければなりません。先に結論をいってしまえば、それはけっして「知識」を積み重ねることではありません。自分の頭で「考える」ことこそ、二毛作人生をしっかりしたものにする「知」のあり方といえます。知識の習得ではなく、考える習慣。この大切さを、あらためて胸に刻むべきです。人間関係やひとづきあいと同様、これまでの認識と意識を根本から変えていく必要がありそうです。
 
これまで日本で行われてきた教育は、知識の集積を最優先するものでした。それは、本来の学問とはいえないものです。学問とは、進歩するものです。知識をいくら積み上げたところで、進歩はありません。過去50年くらいをふり返れば、知識の集積はコンピューターが代替するようになって、いまは人間以上の処理能力をもつようになっています。知識の集積では、人間はとうていかなわないのです。にもかかわらず、知識をふやすことをもって人間の知的進化のように考えるのは、まことにバカげた話です。むしろ、知識がふえればふえるほど、それに反比例するように、思考力が低下することを、わたしたちはもっと早く気づくべきです。思考能力が問われる学術の世界でさえ例外ではありません。たとえば、自然科学分野の研究者なども、知識などの不十分な若いころは、必死に考えて、驚くべき研究成果をあげることがあります。ところが、早い人では30代後半にもなると、その考える力が衰えはじめます。内外の学説や周りの研究者達の成果などさまざまな知識はふえるのですが、その知識が邪魔をする。知識で研究するような器になり、考えることを怠ってしまうのです。50代にもなると、独創性など見る影もなくなっていることが往々にしてあるのです。わたしの経験から言えば、知識偏重教育のなかで学んできた秀才タイプの学生は、テストは70点より90点の結果のほうが絶対いいと信じています。その20点の差は、知的レベルの差であるとさえ思いこんでいます。しかし、ふだん70点レベルの学生が、卒業論文ではひじょうにおもしろいものを書くことがあります。学校ではあまり勉強していそうもない、おそらく読書量もすくなそうな学生ですが、発想がユニークであったり、考えかたにも人をうならせるようなところがあるのです。
 
なぜ、このようなことが起きるのか。70点の学生は、足りない分、自分なりに自分の頭で考えているからです。対して、90点をよしとする学生のほうは、自分の知識で勝負します。だから、独自の思考力が求められる論文では、書いたものがおもしろくないのです。いまも教育で行われているのは、この「90点学生」の再生産です。知識だけを食んで育つひ弱な教育です。学校で受けた知識教育は、生きる上で必要なことがらとは質を異にします。ことに商売の世界では、それがはっきりします。世界に冠たる企業をつくりあげた松下幸之助にしても本田宗一郎にしても、尋常小学校を出るか出ないかの最終学歴でした。彼らは、学校で授かった知識はすくなくても、自分で考える頭がありました。現場で試行錯誤しながら考え、独創的なアイデアを商品として結実させたのです。本来の知性をもっていたというべきでしょう。
 
知的な活動の根本は、記憶によって支えられる知識習得ではありません。知識習得にはげむことは、むしろ考える力を低下させる危険さえあります。この事実を、二毛作人生ではしっかり頭においておかなくてはなりません。知識習得が生きる上で血肉となるのは、せいぜい30代まででしょう。40代、50代ともなれば、その知識を土台にして、独自の知性を発展させていかなくてはなりません。それによって、二毛作人生を花開かせなくてはならないのです。さらに、60代以降の第二の人生を充実させるつもりなら、置き去りにしてきた思考力をすこしでも取り戻す必要があります。それには、自分が受けてきた知識教育の足かせをはずして、自らの頭で考える力をもつことです。若いころの思考力ともまた異なる、後半生で獲得する新たな独創力です。これこそが、後半生を実り多いものにする「若々しい知性」です。
 
 
転生尋語 (その6) —枯れ木も山の賑わい—
 
 
 
 
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